J.J.サクライの『現代の量子力学(Modern Quantum Mechanics)』は、世界の物理学科の大学院(および学部上級)で最も広く採用されている標準的な教科書の一つです。

伝統的な「波動関数」から入る教え方ではなく、「ブラ・ケット記法」による抽象的な状態ベクトルから量子力学を構築していくスタイルが最大の特徴です。


本の主な内容

本書は大きく分けて以下の構成で展開されます(版によって多少異なりますが、基本構成は共通です)。

  1. 基本概念: シュテルン=ゲルラッハの実験から始まり、状態ベクトル、演算子、測定といった量子力学の骨組みを解説します。
  2. 量子ダイナミクス: 時間発展、シュレーディンガー絵画とハイゼンベルク絵画の違い、経路積分などを扱います。
  3. 角運動量: 回転演算子としての角運動量、スピン、角運動量の合成を深く掘り下げます。
  4. 量子力学における対称性: 空間反転、時間反転などの対称性が物理量に与える影響を論じます。
  5. 近似法: 時間に依存しない/依存する摂動論、変分法などを解説します。
  6. 散乱理論: 散乱振幅、ボルン近似、部分波展開など、実験物理とも関わりの深い分野を扱います。
  7. 同一粒子: 多体系の扱い、パウリの排他原理、第2量子化への入り口を扱います。

主な特色

1. 「シュレーディンガーを後回しに」する構成

多くの初等的な教科書が「シュレーディンガー方程式の解法」から始まるのに対し、本書はシュテルン=ゲルラッハの実験(スピンの測定)からスタートします。これにより、量子力学の本質が「波動」というよりも「状態ベクトルと演算子の代数」であることを最初から印象付けます。

2. ディラックのブラ・ケット記法の徹底

全編を通してディラックのブラ・ケット記法が使われており、計算の透明性が非常に高いです。波動関数 \(\psi(x)\) は、状態ベクトル \(|\alpha\rangle\) を位置の固有状態 \(\langle x|\) で射影した「座標表示」に過ぎないという視点が明確になります。

3. 対称性への深い洞察

物理法則の背後にある「対称性(回転、並進、時間反転など)」を非常に重視しています。群論的な考え方の基礎を築くのに適しており、現代的な素粒子物理や物性物理へ繋がる思考法を養えます。

4. 物理的直感と厳密さのバランス

数学的な厳密さに溺れることなく、常に「物理的に何が起きているか」を重視しています。サクライ氏の遺稿を友人たちが完成させた経緯もあり、語りかけるような、物理学者らしい熱量の感じられる記述が魅力です。


どのような人に向いているか?

  • 対象: 物理学科の3〜4年生から大学院生。
  • 前提知識: 学部レベルの初等量子力学(シュレーディンガー方程式を解いたことがある程度)と、線形代数の基礎知識が必要です。
  • 目的: 量子力学をより現代的・抽象的な視点から再構成し、研究に使えるレベルまで深く理解したい人。

注意点

初学者が一冊目に選ぶと、抽象度が高すぎて挫折する可能性があります。一冊目は『砂川重信』や『清水明』などの本でイメージを掴み、二冊目のバイブルとして本書に取り組むのが一般的です。

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